Tuesday, January 15, 2019

1985:ライブ・エイドとクイーンの黒歴史

1985年。13歳思春期の反抗期まっしぐら、この年最愛の母を病気で亡くした私にとっては忘れられない忌まわしき年である。某大学病院に入院していた母を見舞うため病院へと向かうタクシーの中、鼻につくタクシーの独特の臭いとともにカーラジオから流れる研ナオコの「夏をあきらめないで」の暗い旋律がまるで母の死を予見していたようでなんとも悲しかったことが忘れられない。
そんな夏のある日、全英のロックスターたちが集ってアフリカの難民に寄付を募る大チャリティショー、待ちに待った「ライブエイド」の日がやってきた。数日前からクラスメイトに話したが、それにピンと来たのは洋楽ファンの兄のいるSだけだった。やれ「オザキ」だ「ボウイ(デビッドボウイではなくヒムロやホテイを中心とした日本のジャリバンド)」だ「ナガブチ」だなんてホザく同級生を私は「おめえのそのシミったれた甘ったれた『17歳の地図』なんぞオレが破り捨ててやる」と小馬鹿にした。
真夏のクソ暑さにも関わらず、お年玉をかき集めて冬に購入した「戦闘服(ダブルの革ジャン)」を着込み、応接間のテレビが家族に使われていたので両親の寝室のダイヤル式のテレビへと向かった。長期の入院のため長らく使われていない母親のベッドは冷たくひんやりしていた。
「オレたちひょうきん族」が終わり、ついにスタート。ロンドンのウェンブリー・スタジアムを皮切りに米国のJFKスタジアムに加え、全世界数十カ国での衛星同時生中継。かのウッドストックを超えるやもしれぬ一大ロックイベントのいよいよスタートだ。発起人のボブ・ゲルドフを中心にエルトン・ジョン、デビッド・ボウイ、クイーン、U2、スタイル・カウンシル、エルヴィス・コステロ、スティング、ザ・フー、ポール・マッカートニー、etc… という錚々たるメンバー。
ところが革ジャンの襟を立て気合を入れた私を待ち望んでいたのは大きな失望だった。日本での放映は当時のフジテレビの雄、ロックの知識ゼロの「マジメマシテ」故逸見政孝氏が司会を務め、さらにゲストになぜかさだまさし、南こうせつ、清水国明というロックとは何のゆかりもないファッキン四畳半フォーク軍団をコメンテータとして招き、さらにまるで「夜のヒットスタジオ」ばりにどうでもいい日本人アイドルやアーティストに演奏させるという体たらくだった。そんなクソフォーク三人衆の場違いで見当はずれな意見へ殺意を覚えながらも、ウエンブリーでの憧れのアーティストたちの演奏を待ちわびた。その中でも特に心に残ったのがクイーンの圧倒的パフォーマンスである。クイーンの後に演奏を控えていたデビッド・ボウイはそのフレディのパフォーマンスに圧倒され、ステージに登場するやいなや開口一番7万6千人のオーディエンスに向かってマイクを握り「あんな凄いことのあとにオレは一体何をすりゃいいんだ?!」と興奮してクイーンを湛えた姿は印象的だった。ちなみにその後のボウイも素晴らしい演奏でオーディエンスを魅せたが、軍配は断然クイーンにあがる。
67年のモンタレー・ポップ・フェスティバルのオーティス・レディング、69年ウッドストックでのジミヘンの米国歌演奏、91年フレディ追悼コンサートのエルトン・ジョンとアクセル・ローズ、最近では2014年英国ソニスフィアでの6万人を前に魅せたベビーメタルのパフォーマンス。ロック・ファンでなくとも、史実として知られ、後世に残るであろうパフォーマンスが存在する。そして絶対的に忘れられないのが前述したライブエイドでのクイーンの圧倒的パフォーマンスであろう・・・
反抗期まっしぐらの男子にとって、クイーンは決して大声で好きだと言えるバンドではなかった。拳を振り上げ、どこかコミカルにステージを駆け抜ける短髪にヒゲを生やしたフレディの出で立ちは決して真似をしたいとは思わなかったし、始めてボヘミアン・ラプソディを聴いたときは「ガリレオガリレオ」「ママミヤママミヤ」といったコーラスを聴いては腹を抱えて笑っていたし、何よりもデュランデュランやカジャグーグー、マイケル・モンロー等、シンコーミュージック出版の雑誌にはクイーンは当時既にやや過去形であり、もっとセクシーで美しいアーティストが五万と掲載されていた。それでもやはりクイーンの叙情的な曲は美しく確実に心に響き、同級生Sにクイーンのレコードを全て借りテープに録音してウォークマンでフルボリュームでボヘミアン・ラプソディを人知れず隠れて聴いていた。そんな「隠れクイーンファン」が当時たくさん居たように思う。だから、90年初頭にマイク・マイヤーズが映画「ウェインズ・ワールド」で車中でボヘミアン・ラプソディを仲間とヘッドバンギングしながら大合唱する有名な「ロックあるある」シーンを観たときは「なんだ、みんな好きなんじゃん」と、安心させられた。
・・・今から約ひと月前、ようやく映画「ボヘミアン・ラプソディ」をここ南フランスの地元アルルの映画館で観ることができた。よく言われているように史実と違うところもあるが、それはそれで割り切れたし、私自身、たいへん感動させられた。映画についてのトリビアはいろんな方に話尽くされているのでここでは省くが、あえて一つだけ不満を言わせてもらえるならば、不毛の人気を得たクイーンが一時期奈落の底に落ちぶれてしまった第一要因、その一番大事な理由、クイーンの黒歴史について映画が一切触れていないことである。黒いクイーン。そう、あの悪名高き南アフリカのサンシティに出演してしまったという拭いがたい事実だ。
当時、白人層を中心にしたアパルトヘイト人種隔離政策を敷いていた南アフリカの白人専用の大リゾート地、サンシティ。そんな差別が堂々と蔓延るところでクイーンは演奏をしてしまったのだ。クイーン以外にもサンシティで演奏をしたのはフランク・シナトラやロッド・スチュワート、フリオ・エグリシャス、エルトン・ジョン等、大物が名を連ねる。なかでもクイーンと、そして特にロッド・スチュワートはその後リトル・スティーブンによって85年に企てられマイルス・デイビスやジョージ・クリントン、Run DMC、ルー・リード、ブルース・スプリングスティーン、アフリカ・バンバータ、ハービー・ハンコック等参加の「アーティスト・アゲンスト・アパルトヘイト」のその名も「サンシティ」という曲中に、「サンシティでプレイしたロッドスチュワートはクソだ!」と歌詞にも登場し、名声を完全に落としてしまうことになる。
そんな差別バリバリのサンシティに召喚され演奏を行い、そのため差別的危険思想を持つと国連のブラックリストにも載ってしまい、クイーンは本国英国では窮地に落とされていく。フレディ自身がゲイでマイノリティであるにもかかわらず、そんなところでプレイしてしまう軽率さに世界中のファンは傷ついた。
そんなことがあった後でのアフリカの飢餓に苦しむ難民を救う一台チャリテイショーへの出演。まさに起死回生の大チャンス。だからこそ、ここはきちんと劇中で触れてほしかったのだ。なぜならば、あのライブエイドでの圧倒的パフォーマンスをもってすれば十分にそんなとんでもないことをしでかした黒いクイーンですら払拭できるパワーが十分にあるからだ。
とは言えそれを差し置いても素晴らしい映画であったことには変わりない。しかし映画に対する記述等いろいろ読んだが古くからのロックファンならば誰もが知るこの黒い歴史についてあまり語られていないのが気になる。唯一日本のラジオで映画評論をする宇多丸氏がこのことをはっきり話されていたのには好感が持てた。
劇中ではフルコーラスで一度もボヘミアン・ラプソディが流れず、私は観ながら「ハハーンなるほど、さてはエンドロールで使う気だな」と高を括ったが見事に外れた。なんとエンドロールに流れたのがまさかの「Don’t Stop Me Now」だった。自分の苦しくも悲しかった母の死とフレディの死が重なり、気づいたら私は嗚咽していた。フレディの唄う歌詞「don’t stop me now, coz I’m havin’ such a good time I don’t wanna stop at all」がダイレクトに伝わり、若くして亡くなってしまった母もさぞ無念であったであろうと思うとこみ上げてくる悲しみに耐えられなかった。曲が終わり、次の「Show Must Go on」ではそこにいられず退席せねばならないほど感情を揺さぶられていた。
映画館を出て、目の前のローヌ川にたたずむジェラバをまとったモロッコ人の老紳士と目が合うと私はとっさにフレディよろしく「エーオッ」と言ってみた。目を丸くした老紳士から返事は何もなかった。そりゃそうだ。気が収まらない私は今度はこだまを期待して川に向かって「エーオッ」と叫んでみた。すると川の向かい側橋を渡りきった街灯の下のカップルが私のコールに手を振りながら「エーオッ」と返してきたのだ!続けてもう一発「エーエーエーオーオー」と抑揚をつけて叫んだら今度は川の手前のほとりから「エーエーエーオーオー」とレスポンスが返ってきた。暗がりで見えないがジョイントの香りと明かりが見えた。数人の若者が返してくれたのだ。そうか、みんな今映画観てたんだな。その後「エーオ」の合いの手合戦が近所のババアに「Ta gueule(うるさい)!」と叱られるまでローヌ川沿いで続いた。私がフランスを愛する理由はこういうところにある。
家路につきながら次は娘を必ず連れて行こうと心に誓い、ふと腕時計の日付カレンダーを見てギョッとした。奇しくもその日は11月24日、フレディ・マーキュリーの命日だったのだ。
ご拝読いただきありがとうございます。

No comments: