ファッションデザイナーの山本寛斎氏が永眠されました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
・・・1988年、17歳の私は日本大学系の付属校に通っており、そのまま当たり前のように大学に進学することに物凄い抵抗を感じておりました。大学に行くことによって自分のやりたいことがボヤけてしまうのではないかという漠然とした不安、もっとコアなカルチャーに直接触れられるような環境、そしてそんな環境が日本の大学のキャンパス内にあるとは到底思えなかったのです。
ある日、好きだったサイケデリック・ファッションをバンタンデザイン研究所所長である菊池織部氏が日本に持ってきたと何かの記述で読み、ボディ・ペインティングを授業に取り入れたり、自分の求めていた環境と近く、憧れはあったのですが何故か決めかねていました。(バンタンか・・・)
進路指導の際、共通一次試験(のような大学進学のための学園内テスト?)の芸術学部への内定通知を握りしめた父と担任の鏑木先生に挟まれ、私は冷静に自分のやりたいことは音楽であり芸術でありモノ造りである、と話しました。大人たちは「では芸術学部でやりたいだけやればいい」と。当然の意見です。
進路も決まらずモヤモヤとした日々を送っていたある日、渋谷の東急ハンズ裏の路地を歩いていた時に前方からオカシナ格好をした長髪を束ねた男性が現れました。確実に私を見ており、しかも上から下まで私の容姿をチェックしています。ひととおり私を凝視した男は今度は笑みを浮かべている、なんだこいつ?すれ違いざまにようやく気づきました。
その男性は数日前テレビ東京の「ファッション通信」で大内順子女史が紹介していた山本寛斎でした。思わず「カンサイ?」と声を漏らしてしまい、それを聞いた寛斎氏は振り返って私に手を振り、さらに私が被っていた父からのお下がりの茶色の革製のキャスケットとア・ストア・ロボットのローファーのラバーソウルを真似て自作した靴を続けて指差し、親指を立ててくれました。「君のその帽子、履いてる靴にすごい合ってる」といったニュアンスでしょうか?(本当はモヒカン・パンクに自分で改造したキューピー人形のブローチを褒めて欲しかったのに・・・)
私が自身の進路を決めた瞬間です。「決めた。オレはバンタンデザイン研究所にいく。」
前述したファッション通信では寛斎氏が手がけた過去の作品、主にデビッド・ボウイの斬新この上ない衣装等を紹介しており、当時の私には理解不能ながらも漠然とその凄さを感じるセンスはありました。番組ではさらになんと寛斎氏がバンタンデザイン研究所の特別顧問であると、学生にマイクを握って講義する姿。
「進路先に悩む - 渋谷で寛斎と接近遭遇 - 寛斎はボウイの衣装を手がけた - 寛斎はバンタンの特別顧問である」という点と点がつながり、私は父と鏑木先生にもう一度話し合いの場を設けていただき、自身の気持ちや寛斎の話をし二人を納得させ、晴れて希望校に進学させてもらえることができたのです。
途中で気持ちが万一変わった場合、いつでも大学に戻れるようにと両校入学という便宜を図ってくれようとする父が一番すごいと思いますが、あの時私が寛斎と会っていなかったら今のような人生ではなかったのかもしれないと思うと、体の奥底から不思議な感情がこみ上げてくるのをどうにも抑えられません。
バンタン入学後は寛斎先生は年に数回学校の節目等に現れスピーチをされるのですが、入学式か何かの時に遠目に先生を眺めていたらふとした時に目が合い、会釈した私に向かってハンズ裏の路地であった時と同じ動作、帽子も被ってないし靴も違うというのに、頭と靴を順番に指刺し、親指を立て、さらに「お前はあの時の小僧だな」と言わんばかりにさらにウインクを決められました。えっ嘘?先生はあの日のことを覚えてくれていたんだ?!とハッとさせられました。私にはそれだけで十分でした。たったこれだけのことなのにも関わらず、人生に関わる大事な何かを寛斎先生に教わった気になっている自分の思い込みの激しさにやや酔っています。
寛斎先生どうもありがとう、安らかにお眠りください。
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