不良少年の唄;渋谷のゴッチ
「ライダースジャケット」とはフェミニンなファッション用語。私には小っ恥ずかしくて使えない言葉だ。昭和の東京を生き抜いた不良どもはその神聖なジャケットを襟の切り返しによってダブルの革ジャン、シングルの革ジャンと呼ぶ。
・・・80年代後半、17歳。渋谷の公園通りを上りきる直前、ラ・スカラを過ぎて数十メートル、塩とタバコの博物館の向かい、派手なロングフォークのチョッパーが駐輪されているのが目印。先輩格K氏の愛車、そしてK氏経営の古着屋PDC。そこで働いていたのが通称「ゴッチ」だ。
長身で長髪、ゴツいガタイ、腕にはドクロに羽のタトゥ、穴やほつれをミシンで補修した501に70年代の古着のTシャツ、鹿革のエンジニア、指にゴローズのイーグルリング、至ってシンプルでミニマム、鋭い眼光と落ち着いた物腰。その男はレジの奥の椅子に長い足を組んで座っていた。椅子には彼のヴァンソンのシングルの革ジャンがかかっていた。本当に同い歳か?何だこの貫禄は?詩的に彼を形容するならばまるで荒野を自由に走る荒馬の如く美しい、そして恐ろしい、悔しいが。それが彼を見た時の私の第一印象だった。
同時にそこに出入りしていた彼の地元の仲間たち;後に胸元に己の墓石のデザインのタトゥをあしらった L 、細身でハンサムだがやはりタトゥだらけで怖いもの知らずでその名を轟かせていた T、この三人は文字通り「別格」だった。不良そのもの。彼らを見てしまうと、センター街で群れをなしチームを名乗りゴローズをジャラつかせ私立校に通うウイークエンド・バッドボーイズが稚拙に見えてしまった。三人とも異彩を放ち、ものすごくオシャレで、ゾクゾクする「危険」な香りとともに、純粋に「美しかった」。そしてその中でも、ゴッチはその腕っぷしの強さとは裏腹に、とりわけ優しい人だった。
PDCの店舗の奥はちょっとした広場/倉庫になっており、そこにはデニムや革ジャンが山積みだった。ソファーが無造作に置かれ、私の記憶が正しければ確かサンドバッグが天井から吊るされ、ヘッドギアや拳サポーターが転がっていた。当然ミソッカスの私は代わる代わるそんな強面不良たちの、ヘッドギアを付けた人間サンドバッグと化していた。そんな強制「スパーリング」を終え、息を切らしながらまだ震える手でタバコに火をつけていると、「先週より強くなってるよ」と笑いながらゴッチが言ってくれた。ウインストンを燻らしながら私は自分が「男」になった気がした。
とある別の週末、悪友BBとGといつものようにPDCを訪れると、BBが着ていたスコーピオンズのTシャツをゴッチが褒めた。「かっこいいTシャツ着てるじゃん」。いやいやちょっと待ってくれよ、そのTシャツはオレのだぞオレがBBに貸したんじゃねえかよ?!私はものすごく嫉妬した。こともあろうかBBはそのTシャツがさも手前のTシャツであるが如く振る舞っているではないか?!なんてことだ、私はものすごく嫉妬した。そんな私のどうしようもない心の動揺を読むわけでもなく、ゴッチはおもむろにウォークマンのイヤフォンの絡まりを直し始めた。「ゴッチ、何聴いてるの?」私は恐る恐る質問した。「うん?ボビーブラウン」。私は拍子抜けした。なぜなら、強面の彼ならばゴリゴリのロックバンドを当然ながら聴いているだろうと100%思っていたからだ。ボビーブラウン?嘘でしょゴッチ?同時に私は初めて自分が「勝った」と思ったのだ。ゴッチの弱点見っけ。「ボビーブラウンなんて意外だよ、オレはロックが大好きでさ、」と、店内に吊るされているストーンズにデッド、イギーポップやツェッペリン等のロックTシャツを指差しては得意げにロックうんちくをまくしたてた。そして、自分が組んでいるロックバンドのライブに来てくれないかと誘ってみた。私は自分がミックでゴッチたちが失礼ながらヘルズエンジェルズと見立てた妄想を頭で同時に思い浮かべつつ、ストーンズの69年のハイドパーク講演時にヘルズエンジェルズがボディガードとして雇われた逸話を饒舌に話し、優しいゴッチは黙って聞いてくれていたが、しびれを切らせた筋肉ラガーマンゴローズじゃらじゃらTKに「おまえうるさい」と、首根っこを掴まれ、再び人間サンドバッグへ。かくしてつかの間の勝利に酔いしれていた私のロック談義はこうやって強制終了させられたのだった。
数年経ち、私は己の「不良道」の追求の結果、その道をなぜかインド旅行等に見いだし、各国をフラフラしていた。何時ぞや帰国し、六本木のとあるバーで旅先で知り合った女性と待ち合わせた。ソウル・ミュージックの流れる指定のバーに入り、カウンターに歩むと、そこにいたバーテンダーがなんとゴッチではないか?!彼の長かった髪は少し短くなり、鋭かった眼光も少し柔らかくなっていた。私は飛び上がって喜び、思わず大声を上げてしまった。待ち合わせの女性をそっちのけにして話に花を咲かせた。とにかく、「あの」ゴッチがこんなミソッカスの私の事を覚えてくれていた事に興奮したのだ。男として認められた気がしたのだ。そのことが本当にうれしかった。
それからは帰国し、六本木や西麻布界隈で一杯引っ掛けようものならどこかしらで待ち合わせるわけでもなく偶然ゴッチがカウンターを挟んで、酒をつくってくれ、私のアホ話に耳を傾けてくれた。
彼に最後にあったのは、私がフランスに移住する前だから、12-3年前だろうか?西麻布のクラブの階段ですれ違ったのだが、別れ際に何となく、寂しそうな眼をして私を見ていたのがすごく印象的だった。
そんな彼が体を壊して逝ってしまった事を知ったのは、私のスコーピオンズのTシャツを着ていた東京のBBからの通知だった。あの不死身のゴッチが逝ってしまうなんて信じられなかったし、信じたくなかった。そして上記したような青春の日々の思い出が脳によぎり、彼の事を書かずにはいられなかった。特にあの時代の彼の事を知っている方々と思い出を分かち合いたいと思った次第だ。
昭和の東京の不良史に名を轟かせた君と知り合えた事を僕は誇りに思う、ゴッチ、本当にどうもありがとう、君の事は一生忘れません。心からご冥福をお祈りいたします。野地輝人
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