1980年12月初旬。ニュージャージー州フォートリーに家族と住んでいた9歳の私は応接間のクリスマス・ツリーの足元に日に日に増していくプレゼントの箱を数え、その開封ももちろん楽しみにしていたが、それと同じぐらい我が家にHBO、ケーブルテレビがやってくる日を心待ちにしていた。
インターネットのない時代、こいつさえあれば各放送局もテレビ上部のアンテナを調節せずに鮮明に見られるし、特に地方局で放送された日本のアニメや特撮;宇宙戦艦ヤマトやガッチャマン、マッハGoGoGo、ゴジラやガメラが英語ではあるが容易に見られるようになるのだ。
そんなある日、業者がやってきた。テレビの裏に潜り、大袈裟なアンテナを撤去し、ケーブルやらを取り付け始め、白いボタンが横に並んだ茶色の木目のコンソールをテレビの上に設置した。これがHBOか?!興奮した。緊張してチャンネル・ボタンを押すが、なぜかチャンネル2もチャンネル4もチャンネル11もどの局も髪の長い鷲鼻の丸眼鏡をした兄ちゃんだ。「ねえママこの人誰?」
その長髪の兄ちゃんは前日の12月8日、マンハッタンのダコタ・ハウス前で射殺されたジョン・レノンだった。9歳の少年には全く知らない人、全くわからないニュースで、HBOがやってきた初日にどの放送局も知らぬ偉人の死のブロードキャストをしていることに少年は落胆した。改めてあの時の長髪の兄ちゃんをジョンと知ったのはそれから何年も経ってからだ。
数年後帰国し、(あの時のジョンはビートルズのジョンであったことを認識した上で)1985、6年頃の小林克也のベストヒットUSAで1972年のマディソン・スクエア・ガーデンでのジョンのライブ “Live In New York City” が一部放送され、度肝を抜かれる。ヨーコやメンバーは全学連の革命ヘルメットを被り、ジョンは木目のレスポール・ジュニアを高めに構え背中に「造反有理」と書かれた軍服を着てステージに立つ。この日を境に造反有理の意味の探究と共に私の学生運動や60年代・ヒッピー文化への興味も始まった。
その映像ではイマジンやカム・トゥゲザーやマザーと言ったお馴染みの曲よりも、とりわけ Woman Is The Nigger Of The World (邦題:女は世界の奴隷か)に完全にヤられた。情感たっぷりのサックスの音でスタートするこの名リズム・アンド・ブルース・ナンバーはジョンがヨーコと世間話の最中に、ヨーコがサラッと言った言葉をそのままタイトルにして書き上げたとのことだ。男性優位のこの世の中を皮肉たっぷりに歌っているのだが、この曲を知ったこの時期、それならば我が国ジャポンではどんな歌が歌われていたのかを考えると非常に面白い。
さだまさしの「関白宣言」だ。言わずもがなであろうが要約すると日本古来の「女は黙ってついて来い」的な亭主関白ぶり全開のラブソング讃歌だ。リリースが1986年、実にジョンがWoman Is the~ を書いたのが1970年(リリースは72年)であり、その16年後にこの日本のフォークソンガーはこんな歌を歌っており、私は当時子供心ながらこの歌及びそう言った時代錯誤な日本の思想・発想・習慣・伝統に相当落胆した。
今でこそ「関白宣言」は放送禁止レベルなのではないかと思うが、昨今のナイキの「イジメ・人種差別」をテーマにしたCMに対するネトウヨを中心としたナショナリズム丸出しの炎上ぶりを考慮すると、その根本は今も当時もあまり変わっていないのではないかとも思えなくもない。
話を戻そう。そのジョンの72年のライブの模様は臨場感たっぷりな最高なライブアルバムだが、映像ではヨーコが再三にわたりお世辞にも良いとは言い難い奇妙な雄叫びコーラスを入れており、特にエルヴィスのハウンド・ドッグでそれが顕著だが、アルバムの方ではミックス・アウトされているのが興味深い。さらにジョンのソロ・アルバムだということを強調すべくヨーコのソロ曲はほとんどがカットされている。
前衛芸術家としては一流だったが、この日のライブでは実験的要素が強すぎてどうにもジョンの足を引っ張っていた感は否めないが、個人的にはヨーコの功績は高いと思うし、ヨーコが初めてジョンに会った時の有名な言葉、「やっと同じ次元でゲームをプレイできる人にあった」、この言葉に尽きる。いろいろ言われているが、やはりジョンはヨーコに出会えてよかったのだと思う。
ジョンが亡くなって40年、今夜は静かにこのアルバムを聴いて過ごしたい。
造反有理:「謀反にこそ正しい道理がある」
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